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詳細プロフィール記事-北村直也の24年半をまとめました

はじめまして。
全盲の声優として、ナレーション案件に挑戦したり、自主企画の「ぼくらの成果発表会」というイベントを運営している北村直也といいます。
これから、私が歩んできた24年半を紹介します。
ぼくらの成果発表会については、最後に後述しますね。まずは、自主企画もやる声優なんだなという認識でいてもらえればとおもいます。

▼誕生

ぼくは、1993年の11月25日に、生まれつき先天性の視覚障害をもって誕生しました。
生まれてすぐ目が見えないことがわかったり、ほかにも染色体の病気があり、検査を受けたり入院をしたりしていました。そういったことから、病院や盲学校がおこなっている育児相談とは赤ちゃんのころからつながりがありました。
元気なあかちゃんで、いろいろ動き回ったりしていたようです。

▼ポケモンの名前で点字を学び、活発だった幼少期

視覚障害といってもいろいろあるんですが、私の場合は数年前まで色が見えていました。
幼い頃も自分の視力については「これが当たり前」だと思っていたんですね。
地元の幼稚園に通っていたんですけど、親と手をつないで歩くのも、「子どもだから」だと思っていましたし…。でも、テレビの映像が動くことや、紙に書かれている文字がわからなかったです。
あと、「自分が目が見えない」ということを知った決定打としては、地元の幼稚園に通っていて、付き添いの先生がついてくれていたんですが、その先生が、「直也君は目が見えません」と言ったことです。
だから、戸惑いながらも目が見えないことの代替手段を覚えていくことになるんですが、当時、幼稚園の他にも、盲学校の幼稚部にも通っていて、点字というものを知りました。
親と一緒に勉強していてなかなか読めなくて親にいらいらさせることもありましたけど、盲学校の先生が、当時好きだったポケモンの名前などを点字で書いてくれて、点字を学習することができました。工夫してくれた先生に感謝してます。
盲学校でも幼稚園の友達と仲良く遊ぶことが好きで、幼稚園の庭の遊具で遊んだり、盲学校では先生に診てもらいながらグラウンドを走ったり、自転車に乗ったりしていた活発なタイプでした。

▼「紙に書かれた文字」で学習できずに苦しんだ小学校時代

地元の小学校では、入学してすぐにある女子に声をかけられ、それ以降はその子つながりで遊ぶことが多かったですね。よく公園に行って遊具で遊んだんですけど、順番を守らないタイプでした(笑)
小学校での勉強は難しかったですね…。
周りの同級生は紙の文字が読めるじゃないですか。自分は点字にしなければ読めないので、自分が目が見えないということを強く実感した時期になります。
盲学校の低学年の時は、点字と歩行訓練をおこなってました。 この訓練のおかげで教科書を読みやすくなったり、白杖(はくじょう)という歩く時に使う白い杖を使った歩行を行うことができるようになって外出ができるようになりました。
あと、学習で困った例としてわかりやすいのが「コンパス」です。
みなさんがコンパスを使う時って、ペンと針が一体になってるものを使うと思うんですけど、視覚障害用のコンパスは、穴の開いた定規のはじに針を刺し、円の半径の部分にペンを刺して円を描くんです。
授業で円が書けなかったのに、スムーズに書くことができて感動しました!(笑)
また、社会の授業では教科書に写真しか載っていないものを模型などで見せてもらったり、理科の授業でできなかった実験を盲学校でやらせてもらったり。周りの人の優しい配慮で、勉強で苦戦はしたものの遅れることはなかったです。それに、すこしずつ自分のできないことを認めることができました。

▼周りと同じことができなくていじめられた中学・高校時代

その後、中学に進学するわけですが、中学1年の時は平和でした。みんな優しくて、遊ぶときに誘導してくれたり、一緒に手を持ってもらって卓球を楽しんだりしていました。
しかし、中学2年になった時に仲が良かったクラスメイトのほとんどが別のクラスに。
その頃は人に執着しやすい性格で、自分は遊びたいだけなのに、いきなりクラスメイトの腕をつかんだりしていました。あと授業中、友達が自分と違う回答をすると、「違うよ」て即座に言ってしまうクセがあり、それがいじめのきっかけになりました。
いじめの内容としては、「ゴキブリ」などの呼ばれ方をしたり、「キモい」と目の前で言われる精神的ないじめでした。中には、信号が青だよと言われたので渡ろうとしたら、大きなトラックが目の前を横切ったことも…。
先生に相談しましたが、「君が悪いから改善しなさい」と言われました。(今考えれば、そういわれても仕方なかったとは思いますが、しんどい時期でした)
他のいじめエピソードとしては、合唱コンクールの練習の時に、先生がいないことをいいことに、体の大きい生徒が私にぶつかってくるという暴力に近いものもあったり…。 ただ、その中でも自分の味方をしてくれていた人もいて、「ぼくはゴキブリとか思ってないから」と言ってくれる人もいました。
中学3年になり、いじめの主犯の生徒とクラスが分かれて、1年の時に仲が良かった人が同じクラスになり、いじめは終わりました。また、2年の時にいじめられていたけど、仲良くしてくれるようになった生徒もいました。
卒業後、フェイスブックなどのつながりがあった人の中には、「あのときは流されてやってしまった」という人もいて、全員が全員私のことが嫌いではなかったことがわかったのがうれしかったです。

▼SNSでのつながりが支えになった高校時代

高校に入ってからも、空気が読めなかったり、余計なことを言ってしまうことが多く、いじめにあいました。いじめてくるのは2勢力。そのうち1つは会うたびに「気持ち悪い」などと暴言を吐くタイプで、 もう1つは、暴力的なことをしてきました。
暴力的なことについて、友達に相談したり、SNSに辛いことを書いたところ、当事者の生徒がそれを見て「遊びの範囲だった」と、謝罪されました。
私は「School Of Lock」というラジオ番組を中学のときから聞いていて、その先輩もラジオ番組を聞いていたんですね。それで、先輩がラジオのリスナーとSNSでつながりがあると誘ってくれてまずはライブの前の時間に行うオフ会に行ってみることにしました。
その時に連絡先やSNSのアカウントを交換した人たちと、過去にあったいじめの話とか、今の話をしているうちに、心を開いていけるようになりました。今はもうあまり関わりがないんですけど、高校時代の支えになっていました。
オフ会に行ったのが高校1年の秋でしたが、その年の冬に「School Of Lock」に出演。その時のテーマは、「自分の壁を乗り越える」。オフ会で出会ったみなさんと、もっと仲良くなっていろんな話をしたいという旨を伝えました。それ以降、リスナーからの認知も増え、一緒にイベントに行ったり、オフ会を企画したりしました。 ただ、そのリスナーさんに依存することもあり、関係を切られてしまうこともありました。また、私が「先輩つながりの友達」であったため、私の相談内容が先輩に横流しされたり、良いことだけではなかったです。

▼成績やスキル獲得に悩み鬱になった大学時代

大学は、視覚障害者と聴覚障害者が学ぶ。筑波技術大学に進学。
中学のころ、コンピュータの仕事をしている知り合いがいたんですが、その人がコンピュータでいろいろなものが作れるという話をしてくれて。私はゲームやチャットに興味があったので、そんなシステムを作ってみたいと思っていたんです。その理由から、学科は情報システム学科を選択。昔から興味があった情報の分野を志望しました。
大学で習ったことを生かせば「何かしら作れる」と思っていましたが、アイデアが思い浮かばなかったことや、システム開発をするには学校の勉強程度では足りないということを知りました。
卒業できなくなるほど成績が悪いわけではありませんでしたが、成績のことで悩んでいました…。
プログラミングの演習は一番いい成績をとれていましたが、概論で思うような成績がとれず。情報系であれば上位を狙えると思っていただけに、ひどく落ち込み、大学2年の5月にはじめて鬱になりました。
それ以降、大学2年9月、大学3年7月にも同じように鬱になりました。

▼少し休むことによって、また勉強したい欲が復活。鬱を乗り越えた

休み始めはパソコンを開くのも嫌になっていたのに、時間が経つにつれて、「また勉強したい!」と思えるようになりました。友人から課題を送ってもらったりして勉強するようになっていったし。 この時の反省として、休養から復活する時に、根本的なカウンセリングをしなかったから3回休養したのかなと。自分と向き合うことは大事ですね。

▼あるセミナーでの体験をきっかけに声優を目指す

声優を目指したきっかけとしては、高校3年の時にある声優の養成所のセミナーを受けたこと。 当時ラジオトークで優秀者になると番組に出演できる企画があったんですけど、その時に一緒に演技やラジオドラマのコースがあると知り、ちょっとした興味で受けてみました。
実際セミナーを受けてみると、声の大きさを褒められたり、私の演技で相手役の人が逆に素に戻ってしまっていたという講師からの評価をいただいた経験から、「声優という道はありなんじゃないか」と思ったんです。
それ以降、アニメを見て主人公に憧れたり、友達がシンガーとして事務所に入ったのがきっかけで、声優を目指すようになりました、ただ、親の反対もあり、実際に活動し始めたのは、このセミナーを受けてから3年後、大学4年の春でした。
養成所では、演技をするときに表情がでていないことをとくに指摘され、視覚障害であることの難しさを知りましたが、自分の心の動きや、一生懸命表情を動かしながらアピールしつづけました。
なんとか卒業オーディションまで行くことはできましたが、卒業オーディションではどこからも指名されず。自分で事務所を探すことになりました。
自分で事務所を探していると、やっぱり視覚障害を理由に断られることが多く、難航。そんな中、出会ったのが、「アコルト」という事務所でした。「視覚障害があるけど声優をしたいからオーディションを受けさせてほしい」とメールを送ったところ、社長が面接をしてくれたんです。
研修科への所属が認められ、それ以降、2年のレッスンで表現力をみがき、今に至ります。

▼会社の理解が得られず退職

大学卒業後は大手のIT企業に就職し、システム関係の業務を担当。合計で2年1か月務めていました。
ただ、その短い期間にも問題は多くあり、たとえば、帰り道を歩いていると、突然だれかに襲われそうな感覚がしたり、仕事をしていて、大量の案件をふられると、「今のうちにやっておかないと全部できるかわからない」という恐怖心から一気にやろうと無理をして、あとで疲れて何もできなくなってしまうことがありました。
あとは辞めてから気づいたことですが、人間関係でも偏った考え方が多かったですね。
すぐ自分は嫌われてると思ったりしていたので。

▼自分の今後の道を再度考え、声優としてリスタートすることを決心

これらの問題と向き合い、改善していこうと考えていたのですが、それをするには時間がたりず、会社を退職することになりました。
そして、退職してからいろいろ考えた結果、この機会に、自分が本当に好きな声優の仕事や、フリーランスとしてリスタートしようと決意しました。

▼これからの夢・目標

私のこれからの目標は二つあります。

1.全盲の声優になって、夢を諦めない大切さを伝えたいと思っています。 特に学生や精神障害をもつ人、そのサポーターに共感・感動してもらえる作品を作っていきたいです。

自分なりに物語を作ったりしていて、台本もいくつか書いているので、それを演じてみたり、文字で販売できればいいなとおもっています。

2.ぼくらの成果発表会の運営と全国展開

先に書きました通り、私はアコルトに所属してナレーションで活躍する一方、ぼくらの成果発表会という自主企画の運営を行っています。
こちらの企画は、私とシンガーソングライターをしている友人が立ち上げたもので、エンターテイメントの活動はやっているけど発表する場が少ない人たち(自分たち含め)が定期的に成果を発表する場を作りたい、という理念の下で立ち上がったイベントです。
現在2回行われ、ピアノ演奏、朗読、朗読劇、歌のパフォーマンスを行いました。
第2回の録音のURLを載せておきます。
第2回ぼくらの成果発表会
こちらは第3回(2018年9月23日)に向けて準備中ですが、やがては全国ツアーができるようにしていきたいとおもっています。
私を応援してくれている人が全国にいるので、その人たちが同じようにイベントを楽しめるように、いずれは全国でという思いがあります。
そして、応援だけでなく、自分がステージに立つこともできる、そんな発信力あふれる企画にしていけたらとおもっています。

▼最後に

ここまで読んでくださりありがとうございました。
私の人生はまだまだこれから、むしろリスタートなので始まったばかりです。
これからいろいろなことに立ち向かっていきますので、応援よろしくおねがいします。
北村直也